舞踊家の洋行今昔
坂口勝彦
1 石井漠の洋行
今ならヨーロッパまで十数時間で行けるが、大正時代は船で1ヶ月ほどかかった。狭い座席の十数時間と、ゆったりと1ヶ月の船旅と、どちらが快適なのかはなんともいえない。戦前の舞踊家たちの多くが、そうした船旅でヨーロッパやアメリカに渡った。欧州路線は、明治の終わりの1890年代に日本郵船が開設した定期航路で、夏目漱石がロンドンに向けて横浜港を出発したのは1900年だった。あの頃の舞踊家たちはどういう思いでヨーロッパに向けて船出したのだろう。そして、何を見たのだろう。
たとえば石井漠。大正11年(1922年)12月7日に横浜港を出帆、マルセイユに着いたのが翌年の1月14日だった。乗ったのは北野丸。実はアインシュタインが日本に招かれて、この同じ北野丸に乗ってマルセイユを出たのが1922年10月8日。横浜港には11月7日に着いているので、そのほぼ1ヶ月後に石井漠が乗船したことになる。
横浜を出てからの寄港地は、神戸、上海、香港、シンガポール、マラッカ、ペナン、コロンボで元旦を迎えて、アデン、スエズ運河を通って地中海に出て、ポートサイト、マルセイユ。船の上では毎日6時に起きて、同行した義理の妹の石井小浪の訓練をしていたという。小浪はこのとき15歳、漠は36歳。なんとか一人前のダンサーにして二人で踊って稼ごうと必死だったのだろう。とにかくお金がなかった。助成金などあるわけもない頃だ。ヨーロッパについてしばらくすると、二人がお金に困っているらしいという噂が日本に伝わり、「今更ら泣くに泣かれず、巴里で兄妹二人が裸踊をして、やつと赤愧(あかはじ)と命を繋いておるとは、一體どうしたといふのだ。」などと意地悪なことを書いているのは、二人をよく知る上野森鳥という人物(誰だ?)。もちろん裸で踊っていたわけではないだろうが。
そもそも漠はなぜヨーロッパに行こうとしたのか。こんなふうに書いている。
「私の踊はもともと自己流な亂暴なものではあるが、自己流は自己流のやうに自分はこれでいいという自信があつた。だからヨーロッパへ行つて西洋舞踊の偉い先生についてみようといふ氣はなかつた。ただヨーロッパの人間が自分の踊を見て何と言ふか、又ヨーロッパの舞踊にくらべて自分の舞踊はどの位の地位にあるかそれを知りたいといふ氣持が自分を頻りに外遊熱に驅つた。」
かの地で石井漠は何を見て、どう変わったのか。
2 石井漠の「自己流」
石井漠はいつも自信に満ちている。本当は自信がなくても空威張りで自信満々だ。だから、洋行にあたってのこの言葉はどこまで信じられるのかはわからないが、そんなに自信を持つほどダンスをやっていたのだろうか?
よく知られているように、石井漠はローシーの教えを受けた最初の日本人のひとり。伊藤博文や渋沢栄一が発起人となって計画が立てられた帝国劇場に招かれたのがイタリア人のバレエ教師ローシーだった。1912年大正元年のこと。漠は最初は洋楽部のヴァイオリン担当として採用された。ヴァイオリンなんて手にしたこともなかったのですぐに追い出される。懲りずにまた応募して、今度は声が良いからと歌劇部に採用された。それから4年ほど、ローシーにみっちり西洋風のバレエやダンステクニックを仕込まれることになる。どれほど真面目に練習をしたのかはわからないが、最後はローシーとけんかして追い出されることになる。それでもこの間にダンスをやろうと決めたのだから、漠にとって大きな4年だった。
実は、古くさいバレエやオペラなんてやめてしまえと漠をけしかけたのは、山田耕作と小山内薫だった。漠が山田耕作に近づいたのは、帝劇で同期だった河合磯代が山田の恋人だったからだった(山田の何人目の恋人かは数えられないけれど)。山田と小山内の2人は、ヨーロッパから帰国したばかりで、かの地で見た絢爛たるバレエリュス、ニジンスキー、そしてイサドラ・ダンカンの話を漠によくしていたらしい。こうして漠は、ヨーロッパで新しく動き出したダンスの話を、山田と小山内を通してたっぷりと吹き込まれることになった。もうヨーロッパはバレエの時代ではないのだ。とはいえ日本にはまだバレエも根付いてはいないのだが。漠は2人の話からダンスへの夢を広げたのだろうか。
帝劇を辞めた漠は、山田の稽古場の隅っこで、2人でリトミックの練習を始めた。山田はリトミックの聖地ヘレラウに出向いていたし、何作か練習帳も買ってきたらしい。こうして1916年(大正4年)頃に、山田と2人で考案した「舞踊詩」という名の新しい舞踊を始めることになる。石井漠と名乗り始めるのもこのときで、舞踊家石井漠の誕生だ。
でも、それほど評判にもならずに1年ほどで終わりかけた頃、後に浅草オペラとして大ブームになる大衆オペラの創生に参加することになり、帝劇の同期であった澤モリノ等と一緒にそれこそ一世を風靡したのだが、それもまたすぐにやめて、そうしていよいよ1922年にヨーロッパに旅発つことになったのだった。
漠は「自己流」と言っていたが、最初はローシーの訓練を受けたものの、それからは誰に教わるというわけでもなく、ダンス好きとはいえ専門家ではない山田耕作と2人で独自のダンスを作り上げたのだから、確かに自己流だろう。それでよくあれだけ自信をもって、「ヨーロッパの舞踊にくらべて自分の舞踊はどの位の地位にあるか」知りたいだけだと言えたものだ。でも、勇ましいことを言っているが、話に聞いていただけの新しいダンスの本物を、本当は見てみたくてたまらなかったんじゃないだろうか。「日本のニジンスキー」などと勝手に自称していたくらいだから。
そんな石井漠は、ヨーロッパで何を見たのだろうか。
(つづく)


