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変わり続けるフェスティバルとコンペティション
ダンスの形が変わってきている〜

西田留美可

1  バニョレ国際振付コンクール

 

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まずはご存じない方のために、バニョレについてざっくりお話したいと思います。

1969年に、ジャック・ショランがパリの体育館で始めたとき、応募した振付家は5人でした。ざっくり時代を分けると、ダンスを認知させるために格闘したジャック・ショランの開拓者時代、世界各地にプラットフォームを作り、国際的に拡大したロリーナ・ニコラスの時代、フェスティバル形式に移行させたアニタ・マチュー時代となります。日本にもプラットフォームができました。東京から横浜に移り、横浜コンペティションはバニョレコンペ終了後もスタイルを変えながら続いています。

トヨタのコンペも今は終了してしまいましたが、多くの振付家を輩出しました。今日本企業の体力が落ちてきているとはいえ、援助する力はあるはずなのですが、目先の利益が見えないアートをバックアップする気運が縮小してきています。

 

社会も小さな団体も、大きくなりすぎると分裂したり壊れたりします。新陳代謝は新しい時代に必要ですが、実際様々なダンスコンペをきっかけに活動の場を急拡大した振付家は枚挙にいとまがありません。終了したコンペを数え上げると寂しい思いになります。

 

今の時代は小さなコミュニティで、地産地消で楽しめるようなダンスコミュニティを形成する時代なのかな、と思います。

名声のある、規模の大きなフェスティバルやコンペティションは今もあります。国際見本市などもあり、世界的規模で組織的にアーティストの作品を売買する市場もできています。ただ普通の人にはなかなか手が届かないし、よっぽど才能と幸運に恵まれないと世界デビューの順番は回ってこない。中小規模のダンスフェスも激減し、後押しする存在も減ってきてます。そんな時代にフィットするのは、中小規模なフェス同士で連携し、色々な人が海外で踊るチャンスを増やすスタイルなのでは、と思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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昨年のパリで行われたオリンピックにブレイキンが新たな種目として採用され、テレビで決勝戦を見て感慨深いものがありました。芸術性や身体能力、技術などが競われているけど、ブレイキンでは相手に対して競争心を煽るような行為も許されていて、競争心全開。観客はそれも含めて楽しみ、盛り上がり、音楽に乗って競い合う二人と一体になっています。舞台上の競い合う二人は身体能力や技術などでも評価されるけど、競争心の表現も面白がられていて、それは芸術性を否定することではない。

 

なぜ感慨深かったか、というと、同じパリで行われている、バレエではない、新しいダンスの世界最大コンペティションに成長した国際振付コンクール、“ランコントル・コレグラフィック・セーヌ・サンドニ(旧バニョレ国際振付コンクール)“で、2000年にアニタ・マチューがディレクターになり、コンペティションの形をやめ、フェスティバルへと移行へと方向転換の道を選んだことが思い出されたからです。  新たな才能を見出し、活躍の後押しをし、世界へ羽ばたくアーティストを輩出するコンペティションだったバニョレが、フェスティバルになることで、順位はつけられないがフランスのパリで公演をする、というスタイルになったのです。

 

第二期から第三期に移行する頃にどんな作品があつまってきているのかを、何回か見に行きました。世界中からフェスティバルのディレクターや舞踊関係者が集まり、その変化についてわいわい議論していました。ダンスで何を表現したいのか、何がダンスなのか、各振付家の価値観、表現方法、ダンスがまったく異なっていて、その違いを見るフェスティバル、といった感じでした。比較して審査すること自体がナンセンスなのではないか、と思えるほどで、それも変化を促した要因の一つではないかと思っています。

 

競争心に関していえば、作品の中にゲーム性を持ち込んで競争心を見せることがあったとしても、コンペティションだからといっても、振付家同士がダンスで競い合うという意識はほとんどなかったと思います。むしろ自分の作品が世界中の人に認められるかを試したい、評価されたい、という思いの中に競争心が潜んでいるかもしれないにせよ、それはモチベーションの隅に存在している感じだったように思います。  もしダンスの国際振付コンクールがオリンピックのように世界各地を巡回しながら続いていたら、どんなダンス作品が集まり、どんなダンスが面白がられたのかなあ、とちょっと思いました。

 

 

   

バニョレ第1期参加者数と審査員数.jpg
バニョレ、1984年のコンペティションの様子.jpg

バニョレ、1984年のコンペティションの様子

バニョレの三期の比較.jpg

2  青山劇場とダンスフェスティバル

バレエのダンサーの登竜門として有名なローザンヌ国際バレエコンクールは、1973年に始まりました。賞金や留学支援があり、バレエ団入団も約束されるうえに、ダンサーにとって受賞歴は輝かしい業績となり、その後の活躍が期待され、また約束されるます。世界中の若きバレエダンサーが目指すコンクールですが、舞踊コンクール自体としても様々な変遷を経て、現在の地位を獲得しています。

 

そのローザンヌ・コンクールが一度だけ日本で開催されたことがありました。1989年に青山劇場で準決選と決選が行われたのです。(ローザンヌ以外で行われたのは1985年のニューヨークと1995年モスクワ、2020年モントルーのみ。)

 

今回はこの1985年に開館し、2015年に閉館した青山劇場にスポットをあてます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

青山劇場では1986年に第1回バレエフェスティバルが開催された後、2000年まで毎年行われ、閉館の2015年に行われた最終公演は「バレエフェスティバル LAST SHOW」でした。

青山劇場では1986年に第1回バレエフェスティバルが開催された後、2000年まで毎年行われ、2015年の最終公演は「バレエフェスティバル LAST SHOW」でした。

 

ローザンヌを招聘した当時の青山劇場は、若手の舞踊家を送り出す世界的に有名なコンクールをさらに開催します。2年後の1991年に行われた、バニョレ国際振付コンクールの日本推薦会(ジャパン・プラットフォーム)です。1986年に勅使川原三郎が受賞したことで、一気にその名が知られたバニョレ国際振付コンクールは、若手舞踊家の登竜門として、コンテンポラリーダンス界を盛り上げる一助となっていきました。2回目の推薦会は草月ホールで行われ、いずれも満席のにぎわいでした。パリのバニョレに取材に行くと、ときどき青山劇場のプロデューサー/ディレクターの高谷静治さんを見かけましたが、世界各地のバニョレのプラットフォームに審査員としても参加している、と聞きました。青山劇場から横浜にプラットフォームが移ってからは石川洵さんの顔を見かけることがありました。いまではお二人とも亡くなられています。世界各地のプラットフォームを開催するプロデューサー間の交流や情報交換により、新たなプロジェクトが次々と生まれてきた時代です。

 

 

 

 

その頃、日韓ダンスフェスティバルは、1992年から別団体により開催されていましたが、一時中断後、青山劇場の高谷さんが引き継ぎ、新たなフェスティバルとして2003年に、第1回日韓ダンスコンタクトを開催しました。そのとき『韓国ダンスの現在』というフォーラムで、長谷川六さんとともにゲストとして韓国ダンスの歴史や紹介を行ったのが崔柄珠(チェ・ビョンジュ)さんです。その後、日本と韓国の舞踊家の交流が活発に行われ、2007年第9回まで青山円形劇場で続いたように記憶しています。

2010年に青山劇場プロデューサーの高谷静治さんが他界され、2015年には青山劇場が閉館となり、バレエ、コンテンポラリー、ともにダンスの祭典の場としての青山劇場が築いた一時代が終了しました。

とはいえ、2002年から青山劇場・青山円形劇場で始まったダンスフェスティバル「ダンスビエンナーレTOKYO」は2006年から「ダンストリエンナーレTOKYO」となり2012年まで行われた後、2年に一度の祭典として2014年から「Dance New Air」に引き継がれ、東京青山エリアを中心として田町や北千住までエリアを広げ、2020年まで続きました。

こどもの城として、親子で楽しむ場であり、ダンスの祭典の場でもあった青山劇場は、多目的ホールとして改修を目指したものの、現在は再開発計画のなかで頓挫したままとなっています。

海外から著名なダンスカンパニーをいくつも招聘し、野外イベントやワークショップ、フォーラムなどを併設していたフェスティバルには、巨大なお金が動いていたと思われます。バブル真っ只中の黄金時代に始まり、ダンスの興隆に貢献していましたが、バブル崩壊に突入し、規模の大きなフェスティバルは姿を消すことになったのです。

​                     (つづく)

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青山劇場 2014年 撮影 YASKEI

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